三つの理論、三つの問い
人間の価値観を科学的に捉えようとした研究者たちがいる。
シャローム・シュワルツは、70カ国30万人のデータを分析し、文化を超えて普遍的に存在する価値観の構造を発見した。10の基本価値観が円環状に配列され、隣り合うものは互いに補い合い、対角にあるものは緊張関係にある。この円環構造は、人間が「何を」大切にしうるかの地図である。
リチャード・バレットは、組織と個人の意識の発達を7つの段階で記述した。生存のための価値観から、統合と奉仕の価値観まで。人は成長とともに、大切にするものの質が変わっていく。これは「なぜ」それを大切にするか——意識の深さの地図である。
エイブラハム・マズローは、人間の動機を階層的に理解した。生理的欲求から安全、所属、承認、そして自己実現へ。晩年にはその先にある「自己超越」の欲求を見出した。これは「どのような欲求から」価値が生まれるかの地図である。
三つの地図は、いずれも真実の一面を照らしている。しかし、一つの地図だけでは見えないものがある。
70カ国30万人の実証データ
欠乏欲求から存在欲求へ
同じ「達成」の中の、見えない違い
ある経営者は、毎朝5時に起きて仕事に打ち込んでいる。別の経営者も同じように早朝から働いている。行動だけを見れば、二人は似ている。どちらも「達成」を重視する人間に見える。
しかし、一人は「認められなければ価値がない」という恐怖から走っている。もう一人は「この可能性を形にしたい」という衝動から走っている。
シュワルツの円環では、二人は同じ位置にいる。しかし、二人が価値を追求する意識の深さはまったく異なる。一方は欠乏から、他方は充溢から。
この違いを見るためには、円環という平面に「高さ」が必要になる。
3次元の価値観空間
Ictus Values®は、三つの理論を一つの座標系に統合した。
平面の円環を、立体の空間に展開する。そのとき、三つの次元が必要になる。
Y軸 — 次元的視点
縦軸は、物質的なものから概念的なものへの勾配を示す。
下端には、具体的で物質的な価値がある。安全、安定、目に見える成果。上端には、抽象的で概念的な価値がある。意味、公正、美しい世界。
これは単なる序列ではない。マズローの欲求階層とバレットの意識段階を統合した軸であり、「欠乏から追い求めるもの」と「充溢から生み出すもの」の質的な違いを表現している。
心理学の歴史における学派の対立そのものが、この軸の構造と同型である。フロイト、スキナー、進化心理学——彼らは人間を「外部から秩序を取り込む存在」として記述した。マズロー、ロジャーズ、バレット——彼らは人間を「内部から秩序を生み出す存在」として記述した。どちらも正しかった。ただし半分だけ。
Y軸は、その両方を一つの座標系に収めている。
θ — 内観座標
シュワルツが発見した円環構造を、角度として表現する。
0度から360度まで、21の価値観が配列されている。人間の内面における価値観の位置を示す座標であり、それぞれの価値観が動機づけの連続体の上でどこに位置するかを表す。
隣接する角度の価値観は、動機づけが近い。対角にある価値観は、動機づけが対立する。70カ国30万人のデータで実証されたこの構造を、Ictus Values®は継承している。
r — 発達的展開度
中心から外周へ向かう距離。これが、三つの理論を統合したときに初めて現れる新しい次元である。
中心に近い価値観は、意識の発達段階が初期にある。安全の欲求、帰属の欲求に根ざしている。外周に向かうほど、意識は広がり、関係性の範囲が拡大する。集団から個人へ、個人から全体へ。
安全性はr=1。普遍性はr=10。この距離は、意識がどれだけ広い範囲を包摂しているかを表している。
21の価値観
なぜ、21なのか。
シュワルツは半世紀にわたる研究の中で、基本的な価値観の数を10から19に精緻化した。動機づけの連続体の中で、より細かい弁別が必要な箇所を見出したからである。
Ictus Values®が21としたのは、三次元空間に配置し直したとき、二次元では見えなかった分化が現れたからである。
「達成」は、二つに分かれた。錬磨——能力を磨き上げることへの志向と、勝利——他者に対して優位に立つことへの志向。円環の上では同じ位置にあるが、Y軸の高さが異なる。
「快楽主義」は、二つに分かれた。堪能——五感で味わい、存在を受け取ること。謳歌——好きなことに没頭し、生命力を発散すること。一方は受容的であり、他方は発散的である。
「刺激」は、二つに分かれた。発見——知的な新しさへの渇望。冒険——身体的・経験的な新しさへの渇望。
「普遍主義」は、三つに分かれた。尊厳——すべての人間の価値を認めること。共生——生きとし生けるものと共に在ること。地球——この惑星そのものを守ること。関係性の範囲が、人間から、生命へ、地球へと広がっている。
21という数は、恣意的に選ばれたのではない。三次元空間の中で、意味のある分化が起きる最小の単位として、理論的に導かれたものである。
5つの領域
21の価値観は、5つの領域にまとめられる。
開放
自律、探究、発見、冒険
未知に向かって開かれていく力。知的好奇心と自由の領域。
充実
堪能、謳歌
体験の質に向き合い、人生を味わう力。物質的なものと概念的なものの境界に位置し、欠乏と充溢の橋渡しをする領域。
向上
錬磨、勝利、影響、繁栄
能力を発揮し、世界に働きかける力。個人の力が外に向かう領域。
保守
安心、安寧、遺産、調和、清廉、崇敬
守り、受け継ぎ、秩序を維持する力。安定と連続性の領域。
超越
慈愛、誠実、尊厳、共生、地球
自分を超えた存在への配慮と奉仕。個人から全体へと意識が広がる領域。
円環が教えてくれること
21の価値観が円環状に配列されているという事実には、実践的な含意がある。
隣接する価値観は共鳴する。探究を大切にする人は、自律にも自然と価値を見出す。慈愛を大切にする人は、誠実にも親和性を感じる。これは偶然ではなく、動機づけの構造が連続しているからである。
生成論の結晶のメタファーで言えば、これはエピタキシーに相当する。ある結晶の表面に、構造的に整合する別の結晶が成長する現象。一つの価値観が結晶化すると、隣接する価値観の結晶化を促進する。
対角にある価値観は緊張関係にある。探究(351°)と繁栄(153°)。自律(9°)と調和(243°)。冒険(45°)と安寧(189°)。これらの間には、構造的な対立がある。
しかし、対立は否定ではない。すべての人の中に、21の価値観のすべてが存在している。違いは、どれが強く結晶化しているかにある。
チームの中で「なぜかうまくいかない」と感じるとき、多くの場合、対角に位置する価値観を持つ人同士がぶつかっている。探究を大切にするリーダーが、安定を大切にするメンバーの慎重さを「消極的」だと感じる。安定を大切にするメンバーが、探究型リーダーの方向転換を「一貫性がない」と感じる。
どちらも正しい。ただ、見ている方角が異なる。
円環の構造を知ることは、「あの人はなぜあの判断をするのか」に科学的な答えを得ることであり、「私たちはなぜすれ違うのか」を個人の性格ではなく構造として理解することである。
構造の先へ
構造論は、価値観の「地図」を提供する。
地図は有用である。自分がどこにいるかがわかる。他者がどこにいるかがわかる。二人の間の距離がわかる。その距離が、共鳴なのか緊張なのかがわかる。
しかし、地図だけでは、価値観の本質は捉えきれない。
価値観はどこから来るのか。どのように生まれ、育ち、変容するのか。そして、人と人の間でどのように響き合うのか。
この問いに答えるのが、生成論である。
参考文献
- Schwartz, S. H. (2012). An overview of the Schwartz theory of basic values. Online Readings in Psychology and Culture, 2(1).
- Schwartz, S. H., et al. (2012). Refining the theory of basic individual values. Journal of Personality and Social Psychology, 103(4), 663-688.
- Barrett, R. (2014). The Values-Driven Organization: Unleashing Human Potential for Performance and Profit.
- Maslow, A. H. (1971). The Farther Reaches of Human Nature.
- Kenrick, D. T., et al. (2010). Renovating the Pyramid of Needs. Perspectives on Psychological Science, 5(3), 292-314.
- Anthropic. (2025). Values in the Wild: Discovering and Analyzing Values in Real-World Language Model Interactions.
- Matsuda, A. (2025). Ictus Values®: A Three-Dimensional Framework. SSRN/OSF Preprint.