パーパス経営と個人の価値観 — 人的資本開示時代の「本当の整合」

パーパス経営と個人の価値観 — 人的資本開示時代の「本当の整合」

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ある上場企業の会議室に、額装されたミッション・ビジョン・バリューが飾られている。

「挑戦と創造で社会に貢献する」。立派な言葉だ。しかし、その会議室で交わされている会話は、四半期の数字をどう作るかについてである。壁の言葉と、そこにいる人間の行動には、目に見えるギャップがある。

これは珍しい光景ではない。むしろ、日本企業の標準的な風景と言っていい。

パーパス経営、MVV策定、エンゲージメントサーベイ。この10年で組織開発の「ツールキット」は充実した。しかし、組織と個人の間にある溝は、本当に埋まっているのだろうか。


掲げた価値観の構造的問題

組織文化研究の第一人者エドガー・シャイン(Schein, 1985)は、組織文化を3つの層で捉えた。

  1. 人工物(Artifacts) — 目に見えるもの。オフィスの設計、ドレスコード、掲げられたスローガン
  2. 標榜する価値観(Espoused Values) — 公式に表明された理念や行動規範
  3. 基底的前提(Basic Assumptions) — 無意識に共有された、当たり前すぎて疑われない信念

パーパス経営ブームで多くの企業が力を入れたのは、2層目の整備である。コンサルタントを入れ、経営合宿を開き、言葉を練り上げ、美しいスライドにまとめ、壁に貼る。

問題は、2層目と3層目の間にある断層だ。

「挑戦を大切にする」と標榜しながら、失敗した社員を厳しく評価する組織。「多様性を尊重する」と掲げながら、暗黙の同調圧力が支配する会議。標榜する価値観と基底的前提の乖離は、社員にとって日常的に体感されている。そして、その乖離を最も敏感に感じ取っているのは、経営層ではなく現場の人間である。

面白いのは、クリス・アージリス(Argyris, 1974)がこの問題をさらに鋭く定式化していることだ。彼は「Espoused Theory(言っていること)」と「Theory-in-Use(実際にやっていること)」の区別を提唱した。人も組織も、自分が信じていると思っている理論と、実際の行動を駆動している理論は異なる。しかも、その乖離に本人は気づいていないことが多い。

つまり、MVVの形骸化は「意志が弱いから」ではない。構造的に、掲げた価値観と実際に組織を動かしている前提が別物になりやすいのである。


人的資本開示が見落としているもの

2023年から有価証券報告書における人的資本開示が義務化され、ISO 30414に準拠した指標の整備が進んでいる。エンゲージメントスコア、離職率、研修投資額。数字は揃い始めた。

しかし、ここにも同じ構造的問題がある。

エンゲージメントスコアが高いことと、個人が自分の価値観に沿って働けていることは、同じではない。エンゲージメントは「組織への没入度」を測るが、その没入が内発的なものか外発的なものかを区別しない。

バレットの意識発達理論(Barrett, 2014)で言えば、レベル1-3(生存・関係・自尊)の欠乏動機からエンゲージメントが高い状態と、レベル5-7(創造・共創・統合)の成長動機からエンゲージメントが高い状態は、スコア上は同じに見える。しかし、その質は根本的に異なる。

前者は「ここにいなければ不安だから」「評価されたいから」というエンゲージメントであり、環境が変われば容易に崩壊する。後者は「自分の価値観とこの組織の方向性が重なっているから」というエンゲージメントであり、困難な局面でもむしろ強まる。

人的資本開示は、組織の人的側面を可視化するという正しい方向に向かっている。しかし、「何を測るべきか」の本質的議論が追いついていない。測りやすいものを測ることが目的化し、本当に測るべきもの——個人の価値観と組織の価値観の整合度——が視野に入っていない。


「整合」の本当の意味

ここで注意が必要なのは、「整合」が「同一化」を意味しないということだ。

全員が同じ価値観を持つ組織は、一見すると整合度が高い。しかし、それは単なる同調圧力の結果かもしれない。シャインの言う基底的前提が「波風を立てるな」であれば、表面上の整合は高くなるが、組織としての適応力は低い。

本当の整合とは、個人が自分の価値観を明確に持った上で、組織の方向性との接点を自覚していることだ。

ここで、価値観と信念の区別が重要になる。「こうあるべき」という信念でメンバーを縛る組織と、「これを大切にしたい」という価値観を共有する組織では、同じ「整合」でも質が全く違う。

信念ベースの整合は、ルールと監視によって維持される。価値観ベースの整合は、理解と対話によって維持される。前者は脆く、後者はしなやかだ。

Ictus Values® 理論では、価値観を4つの構成——個人的価値観・関係的価値観・組織的価値観・社会的価値観——で捉える。個人が人生において何を大切にするか(個人的価値観)と、組織が何のために存在するか(組織的価値観)は、異なる次元の問いである。この2つが交差する地点を見つけることが、本当の整合だ。

全員が同じ価値観を持つ必要はない。探究を大切にする人も、安定を大切にする人も、同じ組織にいていい。重要なのは、組織の方向性と自分の価値観がどこで重なるかを、一人ひとりが言語化できていることである。


可視化がなければ対話は始まらない

では、どうすれば本当の整合に近づけるのか。

第一歩は、個人の価値観の可視化である。自分が何を大切にしているかを知らなければ、組織の価値観との接点を見つけようがない。しかし、シュワルツ(Schwartz, 2012)が指摘するように、価値観は普段意識されない。葛藤が起きたときにだけ表面化する。つまり、意図的に可視化する仕組みがなければ、価値観は見えないままである。

第二歩は、チーム内の価値観分布の可視化である。「うちのチームはどんな価値観を持った人の集まりなのか」を知ることで、強みと盲点が見えてくる。全員が達成志向なら推進力はあるが、調和性が弱いかもしれない。全員が安定志向なら堅実だが、変革への耐性が低いかもしれない。

第三歩は、掲げた価値観と実際の価値観のギャップの定量化である。組織が「イノベーション」を掲げているのに、メンバーの価値観分布が安全性と秩序性に偏っていれば、それは掛け声と実態の乖離を示している。この乖離こそが、バレットの言う「価値観エントロピー」——組織のエネルギーが内部摩擦で消耗している状態——である。

この3つのステップは、アージリスが提唱した「ダブルループ学習」への入口でもある。Espoused Theoryを修正するのではなく、Theory-in-Useそのものを可視化し、前提を問い直す。それが、MVVを「壁の飾り」から「生きた指針」に変える唯一の道筋だ。


掲げるのではなく、見つけること

パーパス経営の次のフェーズは、「掲げる」から「見つける」への転換だろう。

トップダウンで美しい言葉を策定し、全社に浸透させるというアプローチは、シャインの2層目を整備しているに過ぎない。必要なのは、まず3層目——組織を実際に動かしている暗黙の前提——を可視化し、同時に一人ひとりの価値観を言語化した上で、その交点から組織の本当のパーパスを「発見」することだ。

それは時間のかかるプロセスである。コンサルタントが3ヶ月で納品できるものではない。しかし、そのプロセスを経た組織は、掲げた言葉と実際の行動が一致するという、当たり前だが稀有な状態を手に入れる。

人的資本開示の数字が求められる時代に、あえて問いたい。あなたの組織の「価値観」は、壁に書かれたものと、社員の心の中にあるものと、同じだろうか。もし違うなら、そのギャップをどう埋めるかを考える前に、まずそのギャップを正確に見ることから始めてはどうだろう。


参考文献

  • Argyris, C., & Schon, D. A. (1974). Theory in practice: Increasing professional effectiveness. San Francisco: Jossey-Bass.
  • Barrett, R. (2014). The values-driven organization: Unleashing human potential for performance and profit. Routledge.
  • Schein, E. H. (1985). Organizational culture and leadership. San Francisco: Jossey-Bass.
  • Schwartz, S. H. (2012). An overview of the Schwartz theory of basic values. Online Readings in Psychology and Culture, 2(1).